付箋紙的諸行無常

だいたいノンフィクションです

障害者支援とは何なのか

グループホーム、施設なんて大嫌いだ』と、障害者を対象にしたそれらについて、T氏がFacebookで書いていた。入所・利用へ至る経緯は人それぞれであり、また発病・発症等の背景、そして家庭の事情まで人それぞれであるから、この問題について一概にこうだと主張する気にはあまりなれない。

コメントを覗くと自称元NPO法人理事長という人が、入居者のことを単に「利用者」と呼んだり、「それが嫌なら一人で生きろ」「他を探せ」「うちでは自分で掃除させている」等々と書かれていることに強い憤りを感ぜざるを得なかった。

障害者福祉の現場から遠く離れて一年以上が経ってしまっても、こういった話題はどうしても気にかかるのだ。

答えのない話しをしなければいけない。支援とは何なのか。思うに、それは合わせることから始まるのではないか。北杜夫『どくとるマンボウ医局記』の山梨県立精神病院のくだりで、患者と一緒に病室で寝転んでみて、様々な思いを抱いたドクトル北杜夫のことが書かれている。結局、目線を、視線を、行いを、合わせて見えるものがあり、けれども、それでもわからないものだってあるのだ。

果たして支援とは何なのか。考える「始まり」や「きっかけ」はあるが、それに終わりはなく答えもない気がするのだが如何か。

哀しいかな、障害者福祉業界は誰でも「専門家」になれてしまう。私は就労支援の現場にいたが、スタッフになれば生活支援員とか職業指導員とかの職名つく。そういう事業所である以上、そういったスタッフを置かねばならず、厚労省もこれについては「経験不問、関係する実務経験があれば望ましい」という趣旨の文書を出していたと記憶している。(ただ、多くの施設が社会福祉主事任用資格か三福祉士所持者を採用条件にしている現実はある。)

件の自称元理事長氏は「基本的に障害者は責任能力ない」と言う。きっと後見人制度と医療観察法とをごちゃ混ぜに捉えていると思う、否、そう思いたい。「奉仕は興味がない。個人的に障害者の奴隷にはなりたくない」という人が施設を運営していたという現実がある。そこまで言われると先の発言への妙な整合性があるから恐ろしい。

答えのない道を歩まなければならない。人それぞれの事情と背景があり、それは利用者も支援者も当てはまる。けれども、支援者は、藁をもすがる思いでここへやってきた人々のことを、その人々の未来を思い、人々の命を預かるくらいの気持ちで支援していかなければいけないと思うのだが、どうだろうか。