付箋紙的諸行無常

だいたいノンフィクションです

『仏さまのお弟子になる』を読んだ

藤井善隆 著『仏さまのお弟子になる ―帰敬式を受けて始まる歩み―』(伝道ブックス 79、東本願寺出版 (真宗大谷派宗務所出版部)、2017) を読んだ。

……と書いていることからお察しのとおり、あるいは公言しているとおり、門徒なのです。

帰敬式を受ける予定なんぞはないのですが (いずれ時機がきたら受けるのだろうけれど)、ちょっと気になって読んでみました。小冊子のような形状なのですが、ISBNも振られています。念のため。

お話しは「三帰依文」の『人身受け難し……』のところから始まり、縁のこと (因縁・宿縁・縁起)、三悪趣 (地獄・餓鬼・畜生)、六道のこと、外道のこと、お正信偈からは『一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願』について、等々。

以下、個人的に気になった・気に入った・しっくりきた文言を挙げてみます。

  • 我々は生まれた時は、生と死とを一つにしてオギャーオギャーと純粋に素直に命そのものを生きてきておりました。それこそ無限の命の大きな世界の中、親の懐に抱かれて、ありのままの与えられた命を、文句も不足も言わずに受け入れていきていたはずです。
  • この「私」を中心にしますと、必ず他と対立します。
  • 人生は外道という道に立ったらぐるぐる回るだけです。……都合の良いほうが方向になるので、結局は身の安んずるところがどこにもない。
  • 実は我々、みんなこの環状線 (※外道に立ちぐるぐる回るので大阪の「環状線」に譬えている) に乗っているのです。乗っていない人は一人もおりません。
  • 我々は縁が整ったらどんなことでも行い、どんな目にも遭わなければならない
  • 如来の世界を、我々に見える姿で表してくださったのが、まさに、「三帰依文」にある仏・法・僧なのです。

昔私が相当病んでいたときに、『人身受け難し、いますでに受く。』のその一文に、妙にホッとしたというか、なんというか、そんな感情を抱いたことを覚えています。まだ、お寺の前住さんが生きていらっしゃった頃ですから、たぶん10年くらい前だと思います。

三帰依文』を以下に示します。為念。

人身(にんじん)受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。
この身今生(こんじょう)において度せずんば、さらにいずれの生(しょう)においてかこの身を度せん。
大衆(だいしゅう)もろともに、至心に三宝(さんぼう)に帰依し奉るべし。

自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大道(たいどう)を体解(たいげ)して、無上意(むじょうい)を発(おこ)さん。
自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵(きょうぞう)に入りて、智慧(ちえ)海(うみ)のごとくならん。
自ら僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理(とうり)して、一切無碍(いっさいむげ)ならん。

無上甚深(じんじん)微妙(みみょう)の法は、百千万劫(ごう)にも遭遇(あいあ)うこと難し。
我いま見聞(けんもん)し受持(じゅじ)することを得たり。願わくは如来の真実義を解(げ)したてまつらん。